1967年に初版刊行、著者松田道雄の没後の1999年に『定本 育児の百科』が刊行されるまで、30年以上の長きにわたり、育児書の定番中の定番でありつづけてきた本書ですが、今となっては、巻頭の「結婚したら母親になるべきだ――30歳までに子どもができるようにしたほうがいい」という断言からして、いきなり隔世の感を覚えるかもしれません。離乳食に関する記述など、現在の育児知識からは少々古びた部分も散見されます。しかも、最近の育児マニュアルのほんわかふんわりフレンドリーな語り口に引きくらべてみると、本書の「せねばならぬ」「よろしくない」「心配はいらぬ」「そんなひまがあったら赤ちゃんを外気にあてることだ」といった独特の語り口は、いささか大時代的で、居丈高にすら感じられるかもしれません。
なにしろ著者の故松田道雄は明治41年生まれ、「家族で料理屋にいって食事をしたことは、父の存命中なかった。病気の人から受けた報酬で、おごったことをするのを父ははばかった」(松田道雄『花洛―京都追憶―』岩波書店、1975年)という昔気質の父上から二代続いた京都の町の小児科医であり、59歳で診療をやめた後に、この『育児の百科』の第一版を執筆したのが、今からゆうに40年以上前のことになります。
しかし、明治生まれの著者によって書かれたにもかかわらず、ここには、堕落した戦後民主主義の日本に引きくらべて古き良き日本を懐かしむ、よくあるたぐいの詠嘆はほとんど見あたりません。あるいは、昨今の育児や教育について書かれた多くの本に氾濫している、「急増する凶悪少年犯罪」や「キレやすいこどもの跳梁跋扈」の恐怖をいたずらに煽り、子どもの未来を人質に取ったかたちで読者を自説に誘導しようとする論調も、また存在してはいません。この本が掲げる目標とは、かつての兵役検査で甲種合格まちがいなしの健児健兵を育てることでも、将来の凶悪少年犯罪の発生率を減らすことでもなく、あくまでも今、ここで生きている子どもの「生命をいきいきと楽しく生かすこと」です。そのような子どもの人生の生き生きとしたよろこびと、家庭の平和な生活とを両立させるような知恵の体系を鍛えあげ、伝えのこすために、著者松田道雄は、実際に乳幼児の保育にたずさわる保護者や保育士たちとの対話を重ね、日本の風習や民俗としての子育てをたずね、最新の学術的成果を求めて日々数十冊の国内外の小児科誌・医学誌に目を通してきました。そうした作業を積み重ね、1998年に著者が89歳で亡くなるまでやむことなく改訂を続けた成果が、この『定本 育児の百科』です。
そして、この本が把握しようとした戦後日本の育児をめぐるさまざまな環境は、現代もなおリアリティを失っていないのではないでしょうか。都市の中の密室と化した核家族の中で、たくさんのお母さんたちが、将軍と参謀と兵卒を一人で兼ねたような立場で、病気やけがもすれば、思わぬ事故にもあい、夜泣きをし、激しいかんしゃくを起こす乳幼児を相手に孤軍奮闘し、心身ともに消耗してゆかなければならない。あるいは、急激な都市化と自動車社会化の進行によって、子どもたちが家の外に出て、親の管理から解き放たれ、ほかの子ども仲間と一緒になって自由に遊ぶことができる機会をほとんど奪われてしまった。その戦場のような環境でたたかう保護者と子どもに向けて、この本は、生死にかかわる重大な病気や事故についての知識ほか、特別に気をつけなければならない要点を簡潔にまとめつつ、それ以外のところでは、いたずらに育児書の記述や企業の広告、周囲の人々の言葉を気にして右往左往する必要はないことを説き、保護者が共に生活するなかで覚えた子どもの機嫌のよいときの顔と、抱いたときの体の温もりの加減の記憶を、もっとも大切な判断の基準としてゆくべきことを、くりかえし語りかけます。簡にして要を調は、良きアメリカ映画に登場する歴戦の老軍曹や、いざというときに頼りになる一家の賢いおじいちゃんの語り口を思わせるものです。
1999年に最後の改訂版『定本 育児の百科』が刊行されて以来、しばらく絶版になっていたこの本が、このたび文庫版で復活することになりました。旧版の巻末にあった「子どもの病気」の章は、「医学の進歩とともに改訂の必要がある」(6ページ)ために割愛されています。また、旧版の全編を彩っていた生き生きとした赤ちゃんの写真の数々が、ほとんど割愛されてしまったのも残念なことです。それでも、乳幼児を育てている、あるいは育てようとしている保護者が、今ふたたびこの文庫版を手にし、たとえば、以下に引用する「お誕生日ばんざい」の章を読むことができるようになったことは、やはり幸福なことだといえるでしょう。
誕生日おめでとう。
1年間の育児で母親としておおくのことをまなばれたと思う。赤ちゃんも成長したけれども、両親も人間として成長されたことを信じる。
1年をふりかえって、母親の心にもっともふかくきざみこまれたことは、この子にはこの子の個性があるということにちがいない。その個性を世界じゅうでいちばんよく知っているのは、自分をおいてほかにないという自信も生まれたと思う。その自信をいちばん大切にしてほしい。
人間は自分の生命を生きるのだ。いきいきと、楽しく生きるのだ。生命をくみたてる個々の特徴、たとえば小食、たとえばたんがたまりやすい、がどうあろうと、生命をいきいきと楽しく生かすことに支障がなければ、意に介することはない。小食をなおすために生きるな。たんをとるために生きるな。
小食であることが、赤ちゃんの日々の楽しさをどれだけ妨げているか。少しぐらいせきがでても、赤ちゃんは元気であそんでいるではないか。無理にきらいなごはんをやろうとして、赤ちゃんのあそびたいという意志を押えつけないがいい。せきどめの注射に通って、満員の待合室に赤ちゃんの活動力を閉じこめないがいい。
赤ちゃんの意志と活動力とは、もっと大きな、全生命のために、ついやされるべきだ。赤ちゃんの楽しみは、常に全生命の活動のなかにある。赤ちゃんの意志は、もっと大きい目標に向かって、鼓舞されねばならぬ。
赤ちゃんとともに生きる母親が、その全生命をつねに新鮮に、つねに楽しく生きることが、赤ちゃんのまわりをつねに明るくする。近所の奥さんは遺伝子の違う子を育てているのだ。長い間かけて自分流に成功しているのを初対面の医者に何がわかる。
「なんじはなんじの道をすすめ。人びとをしていうにまかせよ。」(ダンテ)