この本は電車で読まないほうがいい。本なんぞ、どこで読んでもいいじゃないかといわれればそれまでだが、恥ずかしい思いをした経験者として、そう忠告しているのである。
仕事で地下鉄半蔵門線を移動中のこと、神保町駅を過ぎたころ“それ”はやってきたのである。本書の版元「白水社」の下あたりを走っていたからということとは、多分関係ないと思う。いけない、と思った。あわてて本を閉じ、中吊り広告でも見るような振りをして四十五度上の中空を睨んだまではよかったのだが、ある固まりがげっぷのごとく一気に胃の腑を駆け上がり、喉元を過ぎ、喉仏を「うっ」と震わせた刹那、出口を探して迷走していた“それ”はついに我がマナコからほとばしり出たのである。あとは壊れた蛇口、どうやっても止まらない。人目を避けられる死角を探してはみたが、兄ちゃん姉ちゃんがだらしなく占拠をきめこんでいる。向いに腰掛けていた美麗な婦人が(このおっさん、キモイ)という眼差しで僕をチラ見し、辛抱たまらず、降りる予定のなかった小川町で逃げるように電車を降りたのである。だからつまり、電車でこの本を読むのは止めたほうがいい。
ただこう書いてしまうと、三益愛子の大映母もののごとく、三倍泣かせます的安っぽいお涙頂ものと思われては、「リンさんの小さな子」に申し訳ないので、きちんと小説を跡づけていくことにしよう。
主人公は痩せて小さな老人。名前はリン。だがその名を知っているのはこの世に彼自身しかいない。なぜなら「みんな死んでしまったから」。腕に軽い旅行鞄とそれよりもっと軽い幼子を抱き、船の船尾に立って、遠ざかる故国が水平線の彼方へと消えるまで眺め続ける。リンさんは幼い孫娘にミルクを与え、歌を歌ってやる。歌を歌うとき、故郷の風景が蘇る。そこでリンさんは息子夫婦、そしてかわいい孫と暮らしていた。そこに戦争が起きる。村人を吹き飛ばし、田んぼを穴だらけにし、幼子から両親を奪っていく。リンさんは孫娘を死なせないために難民になる決意をし、こうして見知らぬ国へとやって来たのだ。
作者フィリップ・クローデルは、リンさんに年齢も故国の国名さえも与えはしなかったけれど、故郷を遠ざかってゆく時の別離の哀切に満ちた眼差しと、しかしそれに屈することのない意志の力を持った男の横顔を彼に与えた。
リンさんと幼子は片時も離れない。孫娘のために生きよう。そのためならどんなことも我慢しよう。リンさんはそうこころに決め、まるで厚紙のように味気ない料理さえ懸命に口に運ぶ。施設に引きこもり、孫の世話だけに明け暮れるリンさんに回りの女たちは赤ん坊の体が弱くなるから外に連れて行ってあげなさいと囃す。
すべては孫娘のため。リンさんはしぶしぶ孫娘を抱いて外に出る。凍える街並を足早に通り過ぎてゆく異国の人々にぶつからないよう、そのあいだを縫うようにして歩きながら、この国は故国とは何もかもが違う、生暖かい雨も椰子の樹も、いい匂いのする花もない、そんな感慨にとらわれる。歩き疲れ、公園が見えるベンチに腰掛けるリンさん。ベンチにはもう一人、男が腰掛け、リンさんと孫娘を見つめている。男はリンさんより背が高く太っていて、歳の頃はだいたい同じくらいだ。男の名はバルクさん。彼は亡くなった妻がかつて係を勤めていた回転木馬が見えるこのベンチに腰掛け、一日を過ごしていたのだ。バルクさんはタバコを吹かしながらリンさんに熱心に話しかける。リンさんには異国の言葉がまるでわからないけれど、その声を聞くのが好きだということに気づく。ふたつの喪失感が万有引力のように引き合う。リンさんは翌日もまたその公園の見えるベンチへと出かけてゆく。
物語はこうして回転をはじめる。異国の地でもう一つの明かりが灯る。孫娘のほかに生きる力を与えてくれるものにリンさんは巡り会う。リンさんは毎日、男のいるベンチへと出かける。
男との会話でわかる言葉など、ひとつとてない。ただ一生懸命にバルクさんの声の調子から滲む哀しみや傷を感じ取るだけだ。バルクさんは話し相手ができたうれしさのためか、一方的にしゃべり続ける。それは妻を失ってからの孤独の深さを感じさせずにはおかない。ノンバーバルな会話によって、ふたりに芽生えた友情や、喪失感の大きさが読者にそれとなく語られる。
この辺りが実にうまく処理されているために、物語は淀むことなく、リアリティが担保されているのだろう。言葉の通じ合わないふたりが対面する場面で、書き手はともするとディスコミニケーション状態を強調するあまり、いささか大げさな振る舞いをさせてしまいがちだが、フィリップ・クローデルはそこをぐっと堪えて、バルクさんの声の調子を描写していく。
やがてリンさんは別の施設へと移送されることになる。車に乗り込むと街は一気に遠ざかってゆく。施設は塀を回した建物で、凝った細工の鉄門の通用門に立つ守衛が出入りを監視している。つまりリンさんはここへ閉じこめられる。日一日と過ぎていくうちにリンさんはバルクさんに会いたくてたまらなくなる。会いたい人がいるのでここを出してくれ、と職員に願い出るが、聞き入れられないとわかると、リンさんは孫娘を抱いて通用門へと向い、ノブに手をかけたところで職員に取り押さえられ、注射を打たれて気を失ってしまう。
深い眠り、夢の中ではリンさんは故国の人に戻っている。太った男もいる(ここでは、バルクさんという名前は巧妙に伏せられている)。故国の村を歩きながら、リンさんは太った男にこう語る。「ここが僕の国だ」「ここが僕の家だ」。ふたりの会話には淀みがない。ふたりは同じ言葉で語り合い、思いを通い合わせることができる。
リンさんは夢から覚めたあと、力が湧いてくるのを感じる。バルクさんとの再会を邪魔できるものはなにもないと。ここからリンさんの脱出行がスリリングに描かれる。リンさんは回りの老人たちにまぎれるように同じガウンを身につけ、目立たぬように三日間を過ごす。決行の朝、真っ先に朝食を摂ると、食堂を出て、庭園の木立に潜む。あたりに転がっていた枯れ木を塀に立てかけ、それに足をかけてまんまと塀を越える。バルクさんの待つベンチへ向けて、逃避行がはじまる。道は延々と続く。無一文のリンさんにはただひたすら歩くしかない。突っかけたスリッパが裂け、ガウンが水を吸って重くなっても、歩き続ける。…ふと気づくと公園が見える。ベンチにはあの友の姿がある。この国の言葉でたったひとつ知っている「こんにちは!」を叫びながら、リンさんは通りへと踏み出してゆく…。
ここから先は書かずにおこう。200ページに満たない小品である。二、三時間もあれば読み終わるだろうから、ぜひ手に取ってお読みいただきたい。
この小説は前作「灰色の魂」(みすず書房刊)と較べ、文体も構成もとてもシンプルだ。本書の訳者である高橋啓氏も「あとがき」でフィリップ・クローデルの前作は、翻訳者泣かせの作品だったと告白している。日本語にならない、フランス語特有のレトリック、言い回しに満ちていたが、「リンさんの…」は「そういう表現がまったくない」と書いている。訳書のみを比較しても、それははっきりと見て取れる。「灰色の魂」は凍てついた川辺に打ち上げられた美少女の他殺体の犯人探しを縦糸に、冷酷な検察官の恋や複雑に絡み合う町の人間関係、第一次大戦下の世情を織り交ぜ、入り組んだ時間構成で重層的に描いた実に読み応えのある小説だった。そこからみれば「リンさん…」は確かになにもかもがシンプルだ。
フィリップ・クローデルが小さな孫娘以外の一切を失ってしまった、痩せた小柄な老人に託した思いは特別複雑なものではないだろう。いつの時代、どんな土地にもあった生の営み。けれど、強く握りしめるほどに、あっけなく指の隙間からこぼれ落ちてしまう、あの平穏な暮らしである。欲望の肥大化した現代にあっては、この物語が寓話性を帯びるのはそんなことも手伝っているのだろう。
フィリップ・クローデルはこの小説を大人のための童話として書きたかったのだと、僕は密かに思っている。特に普段は本を読まないような若い読者に向けて書いたような節がうかがえる。シンプルさはそのためでもある。夾雑物がない分、まっすぐに早く、しかも深く届くのだから。
本書の扉にこんな献辞がある。「この世のすべてのリンさんと/その小さな子に捧げる/ノームとエミリアのために」。ノームとエミリアは彼のお子さん、この二人のほかに彼にはもう一人、クレオフェというベトナム生まれの養女がいるという。この小説は彼女のために書かれたものらしい。
一説には、世界中に1000万人の難民と2450万人もの国内避難民がいるという。この小説は1000万人のリンさんの物語であると同時に、この星で生きる我々すべての物語でもある。若い読者に、電車以外の場所でぜひ読んでほしいと思う。