7月7日(月)~7月8日(火)
閑話休題。て、いつも閑話休題なのだが、本日は博奕の話をちょっと。
ドストエフスキーが大の博奕好きで、いつも借金に追われていたという話は有名なところである。
大芸術家というのは、だいたいが性格が破綻し、社会性に欠ける一方で、それ故にすごい作品を残したりすることがあるため、面白がられ、尊敬されるわけだが、ドストエフスキーもその系列の人ということができる。
じつは、単なる博奕好きにとっては、こういう存在は、とてつもなく大きな励みになったりする。偉大な芸術家の生き方を盾に「じつはオレは、ただの遊び人じゃない」と大手を振っていばれるからだ。「世間の奴らにはわからない大きな苦悩を抱えているから、こんな風にヤサぐれているのさ」とすかしてみせられるからだ。
なかには、ほんとうにいずれ偉大な人になる者もいるのかも知れない。でも、どうなんだろう、99.999%の遊び人は、偉大な博奕での勝利を望みはしても、偉大な作品を生みだすつもりなどさらさらないように思える。抱える苦悩とやらは、ほとんど負けた日の悔恨と翌日の軍資金の算段あたりだろう。
なぜ、こんなふうに博奕打ちの心理について断ずることができるかというと、理由は簡単。自分自身がそんな賤しい博奕好きの一人だからだ。
実家の隣が、パチンコ屋さんだった(さん付けが基本)こともあり、パチンコにはとくに嫌悪感なく育った。上京して一人暮らしの学生となってからは連日のホール通い。フィーバー機デビュー以後は、その行動に拍車がかかり、なけなしの仕送りとアルバイト代の大半を使い果たすまでとなった。社会人となって『花満開』という名機が登場してからは、一日に使う金額は万単位となっていき、たびたび生活の逼迫に直面した。よく博奕打ちの自嘲として「御殿が建つくらい使ってきたよ」という有名な台詞が挙げられるが、たぶん、これまで平屋の小さな家が建つほどにつぎこんだのはまちがいないだろう。
こういう体験をもってして、自信をもっていうのである。負けがこんだ博奕打ちほど、哀れなものはない。自身を正当化するために、ドストエフスキーの作品をちゃんと読み込んでもいないのに、そのプロフィールのみを鵜呑みにし、彼のような存在であることを標榜してしまったりするのは、やっぱり情けない。
閑話休題の閑話休題。
ところで、いまもパチンコ漬けの毎日かというと、じつは、そうではない。
3年前のある日から、パチンコからすっかり足を洗ってしまっている。
あれは、ちょうど7月のこと。田町のホールでパチンコを打っているときに、千葉沖を震源とした震度4以上の地震が突然襲ってきた。柱が少ないホール全体は大きく激しく揺れ、数百台のパチンコ台がガシャンガシャンと壊れそうにうるさく鳴った。客は大あわてで、みんな、すぐに逃げる態勢をとった。しかし、そんななか、その場を動かないままにうろたえている客たちが何人かいた。大当たり中の客たちだ。彼ら、なんと、自分の命がかかる事態に直面している危機を承知しつつも、大当たりを維持するためにハンドルを離さず玉を打ちつづけていた。あるいは、ためた玉をこぼさないようにと積み上げたドル箱を必死で押さえつけていた。幸いなことに(!?)ちょうど玉切れだった自分は、出入り口付近に避難しようとする中、その滑稽ともいえる光景を横目に見ながら、瞬時に悟ることになった。「オレも大当たり中に地震がきたら、まちがいなく、ああなる」。30年近くつづいたパチンコ熱がスーッと引いていくのが、具体的な物理現象のようによくわかった。
それ以後、一玉も打っていない。生き方についての目覚めが射幸心に勝った形か。
まあ、とはいえ、ちっとも博奕熱は冷めてはいないので、正直、今後どうなるかはわからない。ただ、次は、できれば玉じゃなくて、地震がきても逃げ込めるスペースがある馬とか船にしようかな、などと考えていたりする。
そのころは、この『カラマーゾフの兄弟』を読み終わっているだろうから、負けがこんだとしても、闇雲にドストエフスキーをレゾンデートルにするなんておこがましい真似はしないだろう。自分の弱さに直面できる、一皮むけた、心の強い博奕打ちになっているような気がする。うん、もしかして、それこそが偉人への第一歩だったりするかもしれない(バカ?)。
さて、読書状況である。
本日は第3巻の109ページまで進行。第3部 第7編「アリョーシャ」の章を終えた。死んだゾシマ長老の腐臭についての一騒動があり、それに深く傷付いた信心深いアリョーシャが、なんと父フョードルと兄ドミートリーが奪い合いを演じている女、つまりグルーシェニカの家を訪れ、彼女に膝の上に乗られたりしている。破廉恥な展開の予感。だが、その後、アリョーシャは唐突にさらなる信心を深めていったりして、ちょっとがっかり。ハードな内容の第2巻の後、軽い浮ついたゴシップを求めていた者としては、上げられたり、下げられたり。
これまで、移動の電車の中などで、この小説を読むことは控えるようにしてきた。なるべく自宅である程度まとめて読まないと、理解が散漫となり、ストーリーも追えなくなる気がしたからだ。第3巻の冒頭まで読んでみて、その判断は正解だったように思う。
ところがである。ここにきて、そんな悠長なこともいっていられなくなった。
現在、読書期限の1箇月間のちょうど折り返し地点あたりなのだが、読んだ総ページ数は、半分もこなしていないという状況に直面している。このごろ、ほかの原稿仕事がポツポツ入ってきており、読書の時間がそうそう簡単には取れなくなった事実もプレッシャーとして被さる。場所と時間を選ばず、意地汚くコツコツとページ数を稼ぐ必要がでてきてしまったのである。
じつは、すでに昨日から、こうした現実に迫られ、仕事にでかける際、カバンに『カラマーゾフの兄弟』第3巻を忍び込ませたりしている。で、実際、あちこちでページを捲ったりしている。
予想どおりとはいえ、辛い読書。外の慌ただしさの中では、ドストエフスキーの込み入った文体は、目では追えても、意味を汲み取るのに時間がかかってしまう。Book Japan編集部から、書店のカバーなしで本を受け取ったので、周囲の視線が妙に気にかかり、集中力自体が高まらない弊害もでた(ま、これは自分のせいなんだけど)。
そんなわけで、本日は読むには読んだものの、わずか28ページの進行。うーん、どうしよう。今夜あたり、飲酒しながらの読書も解禁にしようかな……。
ところで、こんなヘロヘロな孤独なマラソンランナーにも、大きな勇気をくださる方々がいる。それは、ブログ「Book Japan編集部便り」に、奇特にも応援コメントを寄せてくださる方々。
なんともありがたや。無教養で勝手気ままな日記にも係わらず、丁寧に読んでいただき、かつフォローまでしてくださっている。過酷な長距離走中に、給水所で特別に効く栄養ドリンクをもらうような気分。感謝感激である。
まず、6月28日の日記に登場のパウル氏に対する、渓太朗さんからの再登場リクエストであるが、酒場で出会えて、うまく話ができたら、また書きます。
それと、一昨日の日記で、当時の1ルーブルっていくらなんだろう、との疑問を呈したところ、himajineさんから、速攻で1ルーブル=4,000円ぐらいという答えをいただいた。これからのスムーズな読書に役立つリアリティという名の強力なパワーをいただいたという感じ。感謝感激雨霰である(実はなるべく素の感触で読もうとしているので、解説は読んでいない)。実際、1ルーブル=4,000円ということがわかると、途端に見えてくるものがあったので、ここで、それも報告しておきたい。
フョードルがグルーシェニカをものにするために用意している三千ルーブルは、つまりは1,200万円相当ということがわかったわけだが、金にモノをいわせるしか能のない55歳が、みんながいい寄る18歳の妖艶な美女をなびかせるには、ちょっと少ないような気がした。すでにかなりのお金持ちの老人にかこわれてきているグルーシェニカの金銭感覚に思いを馳せれば、なおさらだ。フョードル、吝嗇なのか、自信過剰なのか、それとも読みが甘いのか。まあ、現在読み進めている段階で、なんとなくダメになりそうな雰囲気が漂いはじめているのだが、三千ルーブルじゃなく、1万ルーブルぐらい用意すれば、もしかして展開は大きく変わったかもよ、と改めて思ったりする。……うん、確実に読みは深まったな。
さて、『カラマーゾフの兄弟』読書もそろそろ中盤なので、はやいとこ、ここまでのストーリーをまとめておかないと忘れてしまう。近々書くつもりである。
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