7月2日(水)~7月3日(木)
どうやら、腰巻きにあった予告どおり、いきなり物語の核心に一歩足を踏み入れてしまったようだ。
本日読んだ約100ページ(「兄弟、親しくなる」「反逆」「大審問官」の三話)では、怜悧で悪魔的な印象の次兄イワンと純真かつ信心深い主人公の三男アリョーシャが、『都』という料理屋の二階で向かい合って会話するシーンが延々とつづいていた。いつものロシア的饒舌トークがここでも繰り返されていたわけだが、これまで多くあった乱痴気な会話の連なりと趣が大きく異なり、イワンのハードでキレのあるつきつめた宗教観もしくは無宗教観がつまびらかにされていた。「そこまでいうか」というくらいどぎつい発言内容のいちいちに、聞き捨てならない真理のようなものがどっさりと宿っていた。
当然のように、頭が煮えた。
例によってキリスト教的教養が足りないせいで、がんばっても、いいとこ理解度60%ぐらい。そんな状態でのハードな内容の連続100ページ読書は、ひどく辛いものだったのである。酸素マスクなしで高峰の頂点にアタックをかけているような感じといえばいいか。ザイルを自ら切って、滑落し、楽になりたくなるって、こういう状態のことをいうのではないか。
だけど、告白しておこう。そんな一方で、少なからず面白みが感じられたのも事実であった。
かなり大きないい方になるが、人間、あるいは人間の心という現象について、ひさびさに深く考えさせてもらうだけの普遍的に美しい瞬間が、いくつももてたような気がするのである。なんというか、昔々の青春の葛藤を抱え込んだ無垢で高潔な精神の状態に、何度もポーンとトランスさせられた気がするのである。
いい歳して、こっぱずかしいことを書いていることは重々承知の介。でも、本当にそんな感じになってしまったのだから、仕方がないの巻。
もしかしたら、と思う。世間ズレした穢れたオヤジにとっての『カラマーゾフ』読書という行為は、苦難を友にできさえすれば、どんなアトラクションよりも刺激的で、どんな回春剤だってかなわないパワーが与えられるものになるのかもしれない。ドストエフスキーが怪物的文学者といわれる由縁が、なんとなくわかってきた。
なにかと強面な印象のドストエフスキーだが、この人、案外、サービス精神旺盛なんじゃないか思う節がある。そう、じつは本日、この重々しい小説に、読者をクスッと笑わせようとするユーモアが意図的に紛れ込ませてあることを発見してしまったのだ。
第2部 第5編「プロとコントラ」の最終話「賢い人はちょっと話すだけでも面白い」に、ゲルツェンシトゥーベという医師が登場してくる。彼は端役も端役である。しかし、これを含めていままで3回も登場してきており、それぞれちがったシチューエーションでちがった患者を診てきている。で、そんな中で、彼は毎回きまってこういうのだ。「(患者が、今後快方に向かうかどうかは)なんともいえない」と……。
まあ、笑えるネタかどうかは、この際、別の問題としたい。
ここまで読み進んできた実績だけを盾にしていわせえてもらうと、全体のストーリーに不要であってもいいはずの彼に、石橋を叩いて渡る医者もしくはヤブ医者っぽい台詞を吐かせるエピソードを何度も繰り返し挟むことで、ドストエフスキーは、明らかに読者に揶揄の感情を惹起させ、クスッとした笑いを意図的に誘おうとしている印象を強く受けるのである。それは、まるで激流のように流れる大河小説の中に、ときに読者が避難できホッとできる小さな砂州を置いた感じとなっており、そう捉えると、ドストエフスキーって読者に対して細やかな心配りをしているんだなあって、ジーンときてしまうのである。
今後、ゲルツェンシトゥーベが大きな役割を担って登場してきたら困るが、以上、トリビア的な「ドストエフスキー、おかしか~」論でした。
なお本日は、第2巻の第2部 第6編「ロシアの修道僧」に入る前に、読書終了。わずか44ページの進行。
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