目利きの翻訳家にテーマをしぼってインタビューする「この翻訳家に聞きたい」。第2回のゲストは『宇宙飛行士オモン・ラー』の訳者、尾山慎二さんです。ロシア現代文学を代表する作家であるヴィクトル・ペレーヴィンの魅力と、その源流にあるゴーゴリのハチャメチャイズムって?
ヘンテコな小説が好きな人は、ぜひ読んでみてください。
―― (以下、石井千湖)尾山さんは専業翻訳家でも研究者でもなく、書籍編集者なんですよね。しかも、今はビジネス書を多く作っているそうですが。
尾山 はい。
―― どうしてペレーヴィンを訳すことになったんでしょう。
尾山 学生のころに読んでおもしろかったので、訳したんですよ。『チャパーエフと空虚』という作品を。10年くらいかかりましたけど。
―― あっさりおっしゃいますけど、すごいことですよ、それは。ペレーヴィンという作家の存在はいつ知ったんですか。
尾山 教養課程から専門に進むときに、ロシア文学を選んだことがきっかけです。僕が学生のころ露文は人気がなくて志望者は5人くらいしかいませんでしたが、マイナー言語をやっていたら、将来引く手あまたになるんじゃないかと思って。それが的外れな見方だったことにはあとで気づくんですけど(笑)。
ロシア文学というと、やっぱりドストエフスキーとかトルストイとかチェーホフとか、19世紀が光り輝いているじゃないですか。大学の授業でもとりあげるのはほとんど19世紀文学だし、研究しつくされている感じがしたので、卒論は現代の作品で書きたかったんです。といっても、どんな作家がいるのかわからなかったから、図書館のロシア文学の棚にある本を片っ端から読んでいきました。そうしたら、今思えばたまたまそのころ出たばかりだった『眠れ』に当たったわけです。
―― ペレーヴィンの最初の作品集で、日本で初めて訳された本でもありますね。どんなところに魅力を感じたんでしょう。
尾山 読んでいると、何か軸がずれていく感じがあるというか。いちばん好きな「青い火影」は、子供たちが怪談をしているというだけの小説なんですけど、そのうちのひとりが死人の町の話をするんですよ。
ある男が、出張から戻ってきて、町のみんなが死んでいることに気づく。以前と同じように暮らしているように見えるけれども、自分には死んでいるのがわかるというわけです。でも、女房にそういうあんたも死んでるんだよといわれてしまう。その話を聞いてわーっと盛り上がっている子供たちも、実はみんな死んでいるみたいな会話が出てきて……。
―― 怪談の登場人物も、語り手も、聞き手も、みんな死人だった、みたいな。
尾山 子供のいうことだし、嘘かもしれない。どこまで信用していいのか、よくわからなくなっちゃう。読み手の認識を直接揺さぶるような書き方なんです。一見、リアリズム小説なのに、いつのまにか妙なものが紛れ込んでいるから、安心して読めない。そういうところがよかったのかな。
で、卒論のテーマにしようと決めたんだけれども、ちょうどその年、1996年の末に、ペレーヴィンが本国で『チャパーエフと空虚』という長編を発表して、すごく話題になっているという記事を新聞で読んだんですよ。世界の文学事情みたいな小さな記事で、数行しか書いていないから、詳しいことはわからなかったんですけど。
ペレーヴィンはそれまで長いものは書いていなかったので、「ついに来たか」と思いました、いよいよブレイクかと。せっかく俺がいち早く発見したのにどうしよう、みたいな。実際には、『眠れ』の翻訳が出たりそうやって新聞記事になったりしてる時点で、とっくにブレイクしてるんですけど。まあ、ただの小説好きの大学生ですから(笑)。
それで、ともかく読まなきゃみたいに駆り立てられて、ロシアに留学することにしたんです。
―― 1冊の本を読むために、ロシアまで行ったんですか。
尾山 そうなんです。当時はロシアの本は日本から注文してもいつ来るかわかりませんでしたし、『チャパーエフと空虚』はまだ雑誌に載ったばかりで、いつ本になるかもわかりませんでした。
あと、卒論を書こうにも、日本には資料がほとんどなかったので。
―― 96年というと、まだインターネットがそれほど普及していませんでしたからね。過渡期というか。今だったら、もっと楽だったかも。
尾山 本当にもう、あの苦労はなんだったのかと。まず、図書館に行くんですけど、言葉が全然できないから、リストから目当ての記事を探すのがたいへんで。やっと見つけても次は閉架書庫から出してもらえるよう申請する行列に並ばなきゃいけない。コピーするときにはまたちがう行列に並んで、コピーをもらえるのはまた後日、みたいな。そもそもそういった図書館のルール自体なかなか理解できなくて。
結局、当時ペレーヴィンに言及していた評論はロシアでもたいしてなかったんですけど、そのいくつかの記事を集めるのに、何日も費やすことになりました。今ならペレーヴィンのオフィシャルサイトに行けば大量に読めるのに。