B.J.インタビュー vol.3 by Sugie McKoy 2009/1/29(株)角川書店にて
――素朴な疑問ですが、ミステリーと怪談のはざまというのは、理詰めですべてを割り切れる話ではないということなのですか?
道尾 そうですね。かといって、本当に結局何が起きたのかまるっきり判らない、という怪談でもない。
――そのお話の中では、話の中における理屈は通っているのだけれど、完全に話が解決されて、カタルシスを残して終わるというものではないと。
道尾 ええ。それと、感情面でいえば、恐怖ではなく不安を書きたかったんです。不安はどういう時にいちばん大きくなるかというと、「かもしれない」という時に最も煽り立てられる。たとえば、ドアの向うにナイフを持った人が立っていたとしても、そこにあるのは恐怖でしかない。でも、ドアの向うにナイフを持った人が立っている「かもしれない」となると、不安が煽られる。その不安を書きたかったんです。
――文字通りサスペンド、宙吊りにされた状態ということですね。「よいぎつね」の終わり方などは、非常に余韻があります。どういう現象であったのか説明されずに終わる。あの辺がそうなのかな? 「箱詰めの文字」よりも「よいぎつね」の方がより道尾さんの理想に近いというのは正しいですか?
道尾 「よいぎつね」の場合はですね、これは編集者の方も初読では気付いてくれなかったんですが、起きた出来事に複数の「かもしれない」が成立するんですよ。
――きちんと読み返せば伏線も張ってあると。
道尾 そうです。いくつかの「かもしれない」という読みが可能なんです。一見幻想譚のようでもあり、でもじつは理詰めで解釈できる道筋が一つだけあったりもする。
――そこにミステリーと怪談のはざまというテーマが貫かれているわけですね。少し話題を変えますが、道尾さんの小説には、失敗した人生や挫折した青春というものがよくモチーフとして扱われています。取り返しがつかない事態が起きてしまった、という話が多いんです。失地回復が行われる話があればそうではなくて失敗しっぱなしのものもあって、読みながらどちらか判断がつかないところがいつもスリリングなんですよ。収録作のうち「ケモノ」などはそういう意味で本当にどきどきしながら読まされました。一つとして気を抜けるものがない作品集ですね。
道尾 何話か書いたときに「野性時代」の担当編集者から「この辺で一本、リリカルなやつを入れませんか」と提案されたんですけれど「この連作に関しては一方向に振り切っちゃいましょう」ということで、テイストを全部統一したんです。たとえばロックのCDの中に一曲だけバラードが入っているというのは、アルバムとしてバランスがいいようにも思えますが、この本ではそれを絶対にやりたくなかったんです。
――なるほど。全部ハラハラさせられますからね。いちばんホッとするのが「悪意の顔」だというのが凄いですよ。なんでもかんでも吸い込んでしまう絵という、悪夢のような話なのに。
道尾 すいません(笑)。
――私は「冬の鬼」も好きですね。あれは江戸川乱歩フェティシズム小説と夢野久作「瓶詰の地獄」とが幸せな合体をした作品ですよ。冒頭にきちんと伏線も張ってあって、納得もさせられる。
――ここら辺で道尾さんのこれまでの作品を振り返ってみたいと思います。デビュー作の『背の眼』(幻冬舍文庫)から感じていたことなのですが、道尾さんは何かの因果を描いた話を好まれる傾向があると思うのです。巡りめぐってこうなった、というような物語の形がお好きなのでは?
道尾 はい、とても好きですね、読むのも好きですし、書く方も。小説は、読み終えたときに見えてくる型があります。それは「復讐」であったり「嫉妬」であったりするのですが、「因果」という型は、僕が書きたい小説にぴったりくるんですね。
――たとえば第7回・2007年の本格ミステリ大賞を受賞された『シャドウ』(東京創元社)なども、オイディプス神話を連想させるところがあります。物語を書き始めるときに、そうした型を想定されるわけですか?
道尾 明確ではありませんが、おぼろげなイメージはあります。
――因果譚は、過去が現在を決めてしまっているという話です。だからこそ人間の運命の残酷さが際立ってくる。まず登場人物をこうしてしまおう、という結果を最初に決めてしまってから書き始めるということでしょうか?
道尾 短篇の場合は、決めないことの方が多いです。曖昧にゴールを決めることもありますが、『鬼の跫音』の収録作の場合は、書き始めのときにゴールが決まっていた作品は一つもありません。長篇の場合は、スタートとゴールがまず決まっていて、中盤の流れもある程度決まっているんですが、短篇の場合は違います。
――最近は短篇を量産されている印象がありますが、短篇と長篇の違いは端的にどういうところにあると感じられますか?
道尾 もうそれは、やりたい放題できることですね。
――やりたい放題?
道尾 何しろ登場人物が少ないので、お互いの干渉しあうタイミングが少ないですよね。だからやりたい放題できるんです。あと、「破綻してしまったら書き直せばいい」というのもある(笑)。長篇の場合は、どうしても、その登場人物が絶対にやってはいけないこと、というのが各人にあって、それが干渉し合うと全体として出来ない事というのが多くなってくる。
――物語の進展につれて。
道尾 はい。短篇の場合はそれがないわけです。
――『カラスの親指』で道尾さんの読者はかなり増えたと思います。そこからさかのぼって過去の作品を読むという方もこれから出てくると思うのですが、『カラスの親指』から入ると、「道尾秀介って伏線の回収にすごくこだわる作家なんだよな」という印象を持つと思うんですね。『鬼の跫音』でも、冒頭に大胆なヒントを与えるなど、伏線を効果的に用いられています。これって読者に対するサービスとして意識されているのでしょうか?
道尾 僕は残念ながら、そういったショーマンシップは持ち合わせていません。単純にその方が自分で読み直して面白いからです。心血を注いで書いた一行一行なので、出来ればすべて意味を持ってほしいと思うわけですよ。でもそれは、やっぱり無理な話ですよね。たとえば「彼は部屋を出て行った」とか「春の花が咲いていた」という文章に、ストーリーの中で何か重大な意味を持たせることは難しい。でも、伏線としての存在価値を与えることで、重大な意味のある一行へと昇華させることができる。
――なるほどね。そうか、物語として捨てる部分を少なくしたいんですね。
道尾 はい。
――それは考え方が、短篇向きなのでしょうね。
道尾 長篇の場合は、物語を良いものにするために、他にもっとこだわるべきところがあると思います。単純に行数も多いですし。
――登場人物が多ければその頭数だけドラマを要求されるのが長篇ですからね。見えない部分でも読者に想像させるくらいの広がりが要求される。さっきのストーリーの話でいえば、ストーリーの進行とは独立した形で、登場人物の感情、特にパッションを描かなければならないこともあると思います。『ラットマン』(光文社)などはそういう要素に多く筆を割いた小説です。道尾さんの作品はストーリーの流れとは別に登場人物の怨嗟の声や嘆きの声が聞こえてくることが多いのですが、『ラットマン』はそうした背景の声さえもストーリー展開のために利用するという裏技を使っているから余計にびっくりさせられました。
道尾 文章の一行一行に意味を持たせることも楽しいんですが、何がいちばん大事かというと最終的には「良い小説を作ること」です。だから、どっちかを取らなくてはいけないときは迷わずそちらを取りますね。自分のスタイルは伏線回収、という風には別にこだわっていません。
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