トム・ロブ・スミスといえば、昨年、翻訳ミステリ界の話題をさらった『チャイルド44』が記憶に新しい。
殺人事件などというものは資本主義の悪しき弊害であり、共産主義社会では起きるはずがない。よって連続殺人犯など我が国では存在しない……などという奇妙な公式見解がソ連にはあった。この影響もあり、ソ連当局は十数年にわたって、ある連続児童殺害犯を看過したことがある。それがアンドレイ・チカチーロだ。彼は、1970年代末から1990年にかけて、判明しているだけでも50名超を殺害した。
『チャイルド44』は、そのチカチーロ事件をモデルにした連続殺人が、スターリン治下の1950年代に起きるという話だった。時代を変えたのは、スターリン時代の方がソ連という国家の歪みをより先鋭化して提示できたからに違いない。当時のソ連は、世界史上有数の秘密警察国家であり、スパイと密告、そして粛清の雨あられだった。そんな時代に、当局の一捜査官――先述の公式見解を誰よりも遵守しなければならない立場だ――が、連続殺人事件の発生に気が付いてしまったとき、どのように対応するのか。『チャイルド44』はこれを、新人とは思えない貫禄ある筆致で、克明かつスリリングに描いていたのである。
『グラーグ57』は、そんなトム・ロブ・スミスの第2作目で、『チャイルド44』直接の続篇である。
物語は『チャイルド44』の3年後、1956年に始まる。この年は、フルシチョフによるスターリン批判がおこなわれた年である。当局者の中には、スターリン時代の投獄者が釈放されたり、既存の政策の間違いを国のトップ(ソ連指導者の場合は、共産圏のトップであったことにも留意)に認められてしまうと、立場が悪くなる者が出て来る。あるいは、一部の反体制派が勢いづく。かくて体制は動揺する可能性が出て来るのだ。そして現に、同年秋にはハンガリーで反ソ連蜂起・ハンガリー動乱が勃発する。
『グラーグ57』の背景にあるのは、このような社会情勢である。
主人公は『チャイルド44』と同じく、国家保安省捜査官のレオ・デミドフだ。前作で彼は、自分が過去に職務上殺害した人物の娘二人を、贖罪の意味で養女に迎え入れた。しかしこの養女が懐かない。特に姉の方のゾーヤは、両親を殺したレオを恨んでいるのだ。
このように家庭に危機を抱えつつ、レオはモスクワで仕事をしている。しかしスターリン批判の前後から、スターリン時代の捜査官や密告者が次々に殺されるという事件が発生。レオとその家族にも、魔手が伸びて来る。
レオは以前、捜査官という身分を偽って司祭ラーザリに接近し、彼を思想犯として逮捕したことがあった。この一件で切れてしまったラーザリの妻フラエラは、犯罪組織に身を寄せるようになり、現在はモスクワのギャング団で女ボスにまで上り詰めている。自分の生活を壊したレオを恨むフラエラは、養女ゾーヤを人質にとって、レオに対し、ラーザリを収容所から脱獄させろと要求する。脅迫に屈したレオは収容所に囚人として潜入するが、そこでは、自分たちの罪状をでっち上げて投獄した捜査官や密告者に対する怒りが渦巻いていた。レオの正体は早速ばれてしまい(彼自身が逮捕した囚人もいるのだから当然である)、大ピンチに陥ってしまうのだ。
一方、誘拐されたゾーヤは、レオを恨む立場はフラエラと同じだし、彼女の部下の少年マリシュと心を通わせたこともあって、組織に協力するようになった。そして舞台は、ソ連に対する憤懣が高まっているハンガリーに移る。そう、フラエラはハンガリーで反ソ暴動を扇動しようとしていたのだ。
復讐にまつわるサスペンスとして始まった物語は、ゾーヤ誘拐以降、一気に冒険小説色を強める。当然劇性は強く、舞台も東はシベリア(収容所)から西はブタペストに及ぶ『グラーグ57』は前作に比べ、よりダイナミックでスケール豊かになったわけである。その一方で、シリアスな人間ドラマも楽しめる。
レオは以前、粛清に邁進していたが心を入れ替えて正義を追及するようになった。彼の妻ライーサは、そんな夫を愛するようになったが、養女の扱いについて夫に不信感や失望感を抱いてしまう。その養女ゾーヤは、レオを両親の敵と信じ、夜中にナイフを片手に彼の枕元に立つことすらある。女首領フラエラは、ソ連に対する復讐を決意して夜叉と化した。一方、元司祭ラザーリは、収容所の過酷な状況の中ですっかり性格が暗くなってしまった。
彼らの葛藤と相克も読みどころの一つだが、やはりソ連の暗部が一番印象に残る。全員の上に、当時の共産主義国家の暗黒面が情け容赦なく圧し掛かっているのだ。彼らの苦悩を通して、当時のソ連と東側諸国の歪みが、強烈に臭い立つのである。この他、ストーリーテリングも巧みで、一気に読み通すことができるなど、リーダビリティの面でも万全だ。
よって本書は傑作である……と言いたいところだが、無視できない欠点がある。
本書のプロットは専ら、<レオ=ライーサ=ゾーヤ>と、<ラーザリ=フラエラ>という二組の家族、そしてそれらに比べると重要度は低いが<ゾーヤ=マリシュ>の幼い恋人たちによって織り成される。それ以外の主要軸は存在しない。要するにストーリーが全て「極めて近しい」人間関係に拠って立つのだ。
一方、本書で扱われる問題は、スターリン批判やハンガリー動乱など、スケールの大きい国家的・国際的なものである。それを作者は、家族や恋人などの人間関係に落とし込んでしまった。
確かにこの手法は、ソ連という国の歴史について興味を持たない読み手――いきなり国家という大所高所から語られても、ソ連社会の負の側面を感得できない読者――には、感情移入が容易になる非常に効果的だ。しかし反面、全てが「主人公周辺の人間関係」という卑近なレベルに押し込められてしまい、テーマの真の大きさ、根深さ、重さが抜け落ちてしまうのではないか。
終盤のハンガリー動乱の段は、特に問題視したい。ソ連の犯罪者集団や少年少女がハンガリー動乱を扇動しこれにソ連人の主人公が立ち向かうという虚構は、実際のハンガリー国民に悲劇をもたらした史実の前には、娯楽臭があまりにも強過ぎる。真の当事者ハンガリー国民の頭越しに、『グラーグ57』の主要登場人物をここまで出しゃ張らせる必要があったのか、私には疑問だ。
というわけで、十二分にうまいし面白いことを認めつつ、星を一個減じて評価は☆☆☆☆としたい。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
---|---|
おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |